日本連合艦隊の水上機母艦 秋津洲は本当は飛行艇母艦だった!

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旧日本海軍連合艦隊の水上機母艦の秋津洲についてわかりやすく解説しています。

この記事でわかるのは大日本海軍の水上機母艦秋津洲艦船種類とその艦船の排水量・大きさ・いつ竣工したか。
主な参加作戦、沈没したのはいつか、どこで沈んだかです。

艦船 秋津洲は水上機母艦ではなく飛行艇母艦だった

大日本海軍連合艦隊の水上機母艦秋津洲の写真
終戦間際でなく迷彩塗装を施したのは秋津洲が連合艦隊で最初

最初に説明しておきたいのは、皆さんは戦艦や空母という言葉は知っていても水上機母艦というのは聞いたことが無いのでしょうか。
空母に搭載しているのは艦載機と言います。そして戦艦や重巡洋艦や軽巡洋艦に搭載しているのが水上機になります。

何が違うのかと言いますと艦載機は甲板から飛び立つので翼の下に車輪があります。水上機は車輪の代わりにフロートと呼ばれる水に浮かぶタンクのようなものが付いているのです。

その水上機と呼ばれるものの中に飛行艇という双発エンジンの大型のものがあります。
大型にすると燃料タンクが大きくなり、それだけ遠くまで飛べるという事です。
戦時中は索敵と呼ばれる任務があり、遠くまで飛行出来れば発見してからの対処も楽になるからです。また、通常の水上機は索敵任務と砲撃戦の場合に観測という主砲の射撃修正が主な任務です。

秋津洲の建造秘話
1936年に対米作戦でハワイ真珠湾の米戦艦群をおびき出すため、真珠湾奇襲を空母機動部隊で行うか、また、航続距離の長い飛行艇で奇襲を考えていたために秋津洲のような飛行艇母艦を3隻建造予定でした。1万トン級の大型艦を計画するも予算の都合か中型の5000トン級の秋津洲型3隻が予定されたが、1隻のみで終わる。機動部隊が開戦後主戦力になれば不要だったのか。

正確に呼べば秋津洲は飛行艇母艦です。二式大艇または二式飛行艇を艦尾のクレーンで釣り上げて、整備するための専門の船だったのです。ただし、飛行艇を登載したままでの航行は不可能でした。

水上機母艦 秋津洲の基本情報

それでは秋津洲の排水量やどこで建造されたのかを調べてみました。

建造所神戸川﨑重工業
艦種水上機母艦
建造費11,825,000円
母港横須賀

次に排水量や大きさ、速度を調べてみました。やはり艦隊行動は遅すぎてできませんね。さすがは後方支援艦です。

基準排水量4650トン
全長5000トン
水線長114.8m
水線幅113m
深さ9.65m
吃水5.4m
主機22号10型ディーゼル4基
出力8000hp
速力19ノット
航続距離8000海里/14ノット

海里とは国際海里の場合1852mです。元々、地球上の緯度1分に当たります。

続いて兵装はどの程度あったのでしょうか?水上機母艦ですので駆逐艦にも及ばないと思います。

竣工時最終時
40口径12.7cm連装高角砲2基40口径12.7cm連装高角砲2基
25mm連装機銃2基25mm3連装機銃6基
九四式爆雷投射機1基25mm単装機銃3挺

連装12.7cm砲が2基ですので駆逐艦より1基少ないだけですね。25mm機銃も竣工時の連装2基から最終時は3連装6基と銃身が4から18に激増えです。いかに艦艇が航空攻撃を恐れていた証拠です。
時代は主力艦同士の砲撃戦ではなく航空機の戦い、機動部隊が主戦力になったのです。

40口径12.7cm連装高角砲のレプリカの写真
左上が映画で使われた戦艦大和のセットの連装12.7cm連装高角砲シールド付きとシールド無し、下が25mm3連装機銃のシールド付き

12.7cm高角砲で戦艦大和にシールドがあるのは主砲を発射した時の爆風から射撃手を守るためです。それくらい主砲を打つ時の衝撃と爆風は乗組員も最初は驚いたでしょう!

水上機母艦 秋津洲の迷彩は連合艦隊で最初なのか?

ピットロードの1/700の秋津洲のキットのパッケージ
箱絵の迷彩は戦車のよう

秋津洲の船体の迷彩模様は初代艦長の黛大佐の発案です。第1次ソロモン海戦後にラバウルに寄った第八艦隊参謀長の大西少将が秋津洲を見て『厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな』と言ったところ黛艦長は『攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ』と返したそうです。
ラバウルの島ににさせたのかドイツ軍戦車の迷彩を見てもいないのに良くにてるのは不思議です。才能があったのでしょう。

艦首の喫水線上の白く塗られたところは白波でしょうか?空襲を受けた時に停泊中でも進んでいると見せかけて爆撃機の照準を狂わせる狙いですね。どこまで通じたのでしょうか。

水上機母艦 秋津洲の戦歴

1940年10月29日に起工し1942年4月に完成した秋津洲は黛艦長の元、5月にサイパン島へ向かいます。
5月20日にサイパンを出発してニューブリテン島のラバウルに到着します。ここでラバウル航空部隊の補給、整備、救難に従事します。

6月下旬からニューギニア方面に航空基地を建設するための「SN作戦」が初動され、秋津洲も単艦ガタルカナル島へ向かう輸送船団の護衛や哨戒に従事する。

8月からはラバウルにあってガタルカナル航空戦の不時着機の救助に当たるためガタルカナル方面に進出。この時に三川軍一中将率いる第八艦隊と遭遇する。三川艦隊は単艦迷彩を施した秋津洲を敵艦と誤認しかけた。この時の逸話が前述した大西参謀との会話です。

その後、駆逐艦秋風を随伴して飛行艇の補給、整備のためにショートランド泊地に向かいます。
このころB17の空襲を受けますが被害はありませんでした。そして本来の飛行艇の母艦任務、索敵哨戒任務に従事します。また、基地設営、物質輸送、魚雷艇の輸送等など縁の下の力持ちの活躍をします。

12月に艦長が黛大佐から高尾大佐に代わり秋津洲もラバウルを出て修理と整備のために横須賀へ戻ります。

翌18年再びソロモン諸島へ向かい、カビエンに到着。そしてラバウル、ショートランド泊地と転戦します。その後もナウル、ヤルート環礁など中部太平洋を拠点に活躍します。

6月に横須賀へ帰港。7月にキスカ島撤退作戦に従事し、輸送任務等を終え横須賀帰港。9月からは陸軍兵力の輸送任務に従事します。この頃から米潜水艦による輸送船の損害が激増し、本来の水上機母艦としての任務はなくなります。

1944年には大半の工作艦や特設工作艦が沈没し、秋津洲も水上機母艦ではなく工作艦として投入されます。そして運命の日が来ます。

呉から輸送船団と共にシンガポールを目指し、途中マニラ湾に寄港、アメリカ機動部隊の空襲も激しくなりコロン湾に退避します。

1944年9月24日、秋津洲は退避したコロン湾で米空母艦載機の攻撃を受け直撃弾を受け爆発炎上、すぐに沈没しました。3日間の空襲で日本軍は艦艇7隻、船舶31隻を喪失。重油や資材を失い、その後のレイテ沖海戦での作戦行動にも支障をきたしました。

現在も海底に沈む秋津洲の船体をここコロン湾では見ることができるダイビングスポットになっています。多数の工作艦や施設館が沈む中、その迷彩をした日本軍らしからぬ容姿、また水上機母艦といいながら実は飛行艇母艦だった秋津洲は旧日本海軍にあって大活躍した船舶であったことは疑いの余地のない事実です。

この機会に各メーカーから発売になっている秋津洲のキットを手に入れて作ってみるのも面白いと思います。

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